そのときは日本から当時 300 万円ぐらいだけ握って、フィリピンに渡ったんですけど、物価が安いので、町にある安いものを食べて、知り合いの家に家賃1万円とかで泊めてもらって過ごしていました。
-
働き者の職人の父親の背中
-
サッカーに明け暮れた少年時代
-
怪我でサッカーを諦め、美容師修行で得たものとは?
-
とにかく量をたくさんこなす美容師時代に感じたこと。
-
歳上の部下をマネージする難しさに 悩む店長時代
-
人生を変えた女性オーナーとの出会い。 経営者を目指す。
-
女性オーナーのたった一言で体に電気が走る。
-
ハサミ一本で海外で勝負をしようと決める。
-
ビビッ!ときて、3 日後にはフィリピンへ出陣。
-
フィリピンでの美容師として勝負。そして挫折。
-
美容師は成り立たない。一年間の迷いの日々。
11 美容師は成り立たない。一年間の迷いの日々。
フィリピンに渡ってみて、物価が驚くほど安くて、髪を切るだけでは生活ができなくなってきて、実際そのとき生活はどうされていたんですか。
フィリピンで川尻さんが最初住んでいたのは、庶民の町みたいなところですか。
そうです。最初はその知り合いの方の自宅でした。結構その人は裕福な層に入る人だったと思うんですが、その方の家の一室をお借りして住んでいました。
フィリピンって主食は何ですか。

普通に米もあるし鳥とか普通にあるんですが、味は日本の方の口には、あまり合わない味です。
川尻さんご自身は食べてみて、これ無理だなってことには、ならなかったですか。
無理だなとはならなかったですが、正直おいしいとも思えなかったです。
フィリピンに渡って、カットの料金が安すぎてうまくいかないかなと思うまでは、どれぐらいの期間ですか。
半年ぐらいあったんじゃないですか。
やっぱりこれは難しいなと半年ぐらいでわかり、その時点で戻ろうと思わなかったですか。
その時点では戻ろうとは思わなかったです。まだ全部思ったようにできてないというか。第 1 弾としてやってみたけど、思うようにいかなかったなという結果を受け入れるという状況です。
まだやれることはもしかしたらあるし、物価からいうと貯金もまだあるし。
そうです。そのときはまだ貯金もあったので、普通に髪を切って食べられていましたし、そんなに目減りもしてなかったと思うんです。生活コストも安かったし。だから、とりあえずやっているうちに、何か出てくるんじゃないかという期待をもって当時やっていたと思います。
次はどういうことがフィリピンの生活で起こるんですか。あるいは、川尻さんの仮説というか、これをやったらいいかなというのは、その時点でもうあったんですか。
正直、今まで髪を切ることしか、サッカーか美容師しかやったことがなかったので、漠然と成功できたらいいなという気持ちがあったと思いますが、何でというのは正直なかったんです。
10 年前にフィリピンに渡って、フィリピンで成功している日本人を探したんですが、あまりサンプルケースがいなかったんです。
ないですか。
アメリカだとレストランで成功した日本人が、いるじゃないですか。だけど当時は見当たらなかったんです。
その間は何かないかなと思って動き出してはいたけど、正直、手掛かりがないという。
正直手掛かりがなくて、手探りでフィリピンにおいてビジネスで成功している人のパターンを研究するみたいな。どういうかたちで成功しているか。例えば美容だったら美容の業態で、どう成功しているケースがあるのか、飲食なら IT ならどうだとか、そういうのをひたすらずっと調べていました。
川尻さんの絵が全然僕の中に思い浮かんでいないんですけど、それは人脈をたどって人に聞くとか、日本だと会食とか経営者交流会とかですが、どういう動きの中でそういうのを得ていくのですか。
当時、知り合いが広がっていくネットワークもなかったですし、自分は日本人の輪に入って日本人のネットワークで広めても多分その人たちと同じ結果しか出ないと思っていたので、逆に現地の人たちが求めているサービスとニーズをつかもうという行動を取っていたと思います。
日本人仲間で群れて、その中でごちゃごちゃやるよりも、現地の人が何を考えているかを結構重視していた。
そうです。日本人が日本人をだますじゃないですけど、結構だまされている人も多かったので、逆に日本人に近づいても、あまりいい情報は取れないかなと自分は思っていました。
そこからどれぐらいの期間ですか。作戦を練りながらアイドリングをしているというか。
髪を切りながら、いろんな情報を取りながら同時並行ではやっていたんです。でも本当に、これをやろうと決めるまでは、1年ぐらいあったと思います。