当時、本当に何がしたいかというのも……。サッカーのことしか考えていないまま小学校から高校まで来ちゃったので、それができなくなるという想定をしていなかったというか。逆に言うと、今までお父さんの背中を見て、仕事はそれぐらいしか見たことがなかったので、コンビニやパチンコやさんでアルバイトというのは、ちょろっとはしたんです。でも、親とかに相談すると「手に職だよ」と言われている時代だったので、なるならないは別にして、美容師という資格さえ持っていれば、何かあっても飯は食っていけるだろう、みたいな感じだった。
03怪我でサッカーを諦め、美容師修行で得たものとは?
サッカーで靱帯(じんたい)をけがでやってしまって、サッカーをあきらめて、すぐにそのあと美容師になろうという夢に切り替わったんですか。
なるほど。美容師だと専門学校2年。
僕の場合は通信教育といって、関西美容専門学校という大阪天満橋にある、割と歴史のある専門学校だったんです。一般の通うスクールなんかはお昼2年なんですけど、夜が2年半で、通信が3年でというかたちで、僕は3年。通信で月に1回スクーリングに行くのと、あとは送られてきた通信教育で勉強しながら、でっち奉公というんですか。家の近辺、自転車をこいで20分ぐらいのところにあった町の美容室を母に紹介してもらって、「すごく厳しい先生だけど、いい先生だから」ということで、そこに入社して。
もう働き始めて。

そうです。
じゃあ、修行ではないけれど、本当に職人として熱心に働くお父さんの背中を見て、お母さんが紹介してくれた厳しい美容室で。高校卒業して18歳の川尻青年ですよね。
そうです。だから最初はほんとに。そこも芦屋と西宮のちょうど間ぐらいにある苦楽園という、ちょっとマダムとかが住んでいるような町だったんです。
結構名だたる有名な会社のご婦人とかが来られていたりするんです。
シャンプーのやり方とかもわからないので、シャンプーを終わってマッサージから入ったり、鏡を拭いたりトイレ掃除したり、床を掃いたり、そういう見習いから始まりました。
一般的にも美容師さんのお仕事って、見習いはめちゃくちゃ厳しいというのは結構有名な話で。どうでしたか、実際は。
完全に今だったらブラック企業と言われるぐらい。給料が安くて、きれいな仕事でもなくて、ほんとにすごい肉体労働で、今までの人生の中でも、あのときが一番しんどかったなと思うぐらい過酷で。
そこに何年いたんですか。
3年半ぐらいです。
途中で辞めようと思わなかったですか。
もう何回も辞めようと思いました。毎回怒られて。
怒られるんですね、やっぱり。
そうなんです。でも今思うと、あの厳しいマスターがいたから。サッカーしか本当にやってこなかったので、自分は突進力しかないわけです。
真っすぐ。言われたらやるぐらい。
そうなんです。だから一言われたら十悟れと。そういうこともすごく言われて、相手の立場になっていってどう感じるかとか、大人になって基本的にわかることだとは思うんですが、それを一つひとつ、すごく体験して教えてもらったんです。ある意味、親より親だったかも。
へえ、そうなんだ! 川尻さん、今はそうやって言葉にできますけど、当時はどんな捉え方ですか。結構厳しく、ああいう上下関係で説教とか、おそらくされると思うんです。閉店後とか。
当時はほんとに理解ができなくて、サッカーはある程度、点を決めたらすごい。スターになるし、チームをまとめる力があったから、自分もそのポジションにいられたんだなと思えていたことが、本当に社会に出て、いろんな人たちに携わる厳しさというか。お金を頂いてお客さんに喜んでもらうのは、そんなに難しいんだと思うぐらい、いっぱい勉強させてもらった。生身の人間を触るので、相手がどうしてもらったら喜ぶかを先読みして提供していかないと、自分の存在価値がどんどん薄れていっちゃうので、そういう意味では結構、基礎になったと思います。